「いいかい、わたしや先に身まかるのは、人間(ひと)の順序だ。

あとはお前がこの店をやることになるだろう。さあ、その時にだね、

いいかい、世の中ってえものは、裏もありゃ表もあるってえがね。

どっちかって言やア、裏が表みたいなもんなんだよ。まして商人(あきんど)

にはね・・・。たとえば、お前さんが商売(しごと)の時にだ、いいかい、

皆さんご招待するだろう。さあ、その時に、やれ『どこそこの料理屋は

どのくらいの格式をもっている』とか『この店はどういう料理を食べさせる』の、

『何という女中さんが仕切ってる』の、といろんなこと、万事そういうものを

知っておかないと、いざというときに、商いの切っ先が鈍(なま)るんだよ」

・・・『明烏(あけがらす)』立川談志より

店のあるじ、旦那さんが息子に言って聞かせている。息子は真面目で、

遊ぶことを知らない。商人(あきんど)として、それじゃあ、いけないよと

言っている。この「あきないの切っ先が鈍る」という表現、大阪は桂米朝師匠

の十八番『百年目』でも旦那さんが番頭さんの遊ぶのをとがめず、むしろ

「遊びの一つも知らないようでは、商いの切っ先が鈍る」とさとすときに

使っている。

とても良い表現だと思う。

勉強ばかりしてないで、本ばかり読んでないで、仕事ばかりしてないで、

遊ぼう。悪いことしよう! それが結局、商いを太く、健康的に育てるのだ。