あるネットショップで買い物をした。

うんともすんともいってこない。

いつ届くのか。

3日たったとき、サイトの「お問い合わせフォーム」で必要事項(注文ナンバーなどだ)

すべてを記入のうえ、「いつ届くのか教えて下さい」と問い合わせした。

何の連絡もない。

やがて、メールで「発送のおしらせ」が来た。

この店のオーナーは、その「発送のおしらせ」が答になると考えているのだろう。

そこには、ネットショップで決定的に必要な「顧客との対話」が欠落している。

リアルに顧客と触れ合えないからこそ、メールや場合によっては電話による

顧客との対話が必要なのだ。

そこが理解できないこの店は、おそらく、長くないだろう。

また、銀行やカードなど金融系の会社組織はいまだに顧客を「ボタン押しの刑」

にさらして平気である。

「**の方は1を、**の方は2を・・・」

その間の通話料は顧客負担である。

下手したら「この通話は60秒ごとに10円かかります」なんて平気でいう

窓口もある。

ある不動産エージェントは、ぼくと物件の案内をメールでやりとりしていた。

結局、希望に叶う物件は見つからず、そのままなのだが、やがて個別に

物件案内の私信を送っていたそのメールアドレスへ

「顧客向けメールマガジン」を送りつけ始めた。

「それをもって、物件の案内に代える」了見なんだろう。

ナメとんか。

要するに、みんな、「あきんど」ではなく、「処理屋」になっているのだ。

天神橋筋商店街三丁目にある土居陶器社長、土居年樹さんの本。

梅干しを入れる壷を買いに行って、ずっと前から気になっていた

のでレジ横にある本も一緒に求めた。

たまたま土居社長が店におられたので、サインももらったりして。

いやー。ここには商いの基本がぎっしり書かれている。

企業商人と街商人(まちあきんど)という表現をされている。

なるほどー。街商人は衰退の一方だ。

企業商人がA級を企画し、街商人がその真似というか、「ダッシュ」付きの

AダッシュかB級を真似する。そんな状態になってはいまいか。

表現は違うが、土居さんが主張されているのはこの危機感だ。

一本背骨に筋を通し、商人には街を守り、子どもを育て、文化を次代に残す

使命がある。それこそ街商人の「あり方」だろう。

日本全体の劣化は街商人の衰退と無関係ではない。

シャッター商店街と呼ばれる残念な商店街を思い起こすに、

「文化」の必要性を感じざるを得ない。

文化のない商店街は衰退する一方だ。

街あきんどの三惚れ「街に惚れ、人に惚れ、店に惚れる」。

そして、言葉を大切にする。

大阪弁を自在に操れることも、大阪の街商人の条件だろう。

言葉は思考を形成する。言葉は、文化である。

「社会」とは、「神社で待ち合わせして会う」ことからきている。

昔から人の暮らしは、神社や商いと共にあったのだ。