水木しげる先生が面白いことをおっしゃっていて

「幸福という言葉があるから、不幸が生まれる」

どういうことかというと、水木先生は太平洋戦争で召集され、

南方に赴任した。そこの島では人々がとてもシンプルな生活

をしていて、基本、のんびりしている。

バナナが豊富に実っているから、腹が減れば食べる。

島の人全員ではとうてい食べきれないほどバナナはできる。

だから食う心配がない。

暑い気候だから服がいらない。

働く、という思想がない。

のんびりしている。

誰か客が来たら、みんなでもてなす。

終わったら、のんびりする。

彼らの中に「幸せ」という言葉がない。

ないから不幸もない。

しかし、「幸せ」という言葉をもっている

われわれから見たら、この上ないほど幸せそうに見える。

ここから水木先生の考察が始まる。

「幸せという言葉があるから、求めてしまうのだ」

なるほど。

確かに、そうだと思う。

少数民族ピダハンには色を示す言葉がない。

だから彼らの世界には色がない。

言葉は現実を生み出す。

ぼくがよくいう事例だが、昔から

「あのおっちゃん、何してるんやろ」

と子ども心にも不思議な親戚のおっちゃんはいた。

それが「ニート」という言葉が生まれた途端

ニートが日本中に生まれた。

春先、鼻をぐずぐずしたり、くしゃみしたりする人は

いた。

それが「花粉症」という言葉が市民権を得た途端、

日本中に花粉症患者が生まれた。

昨日、ええふとんや(→クリック!)高橋裕一社長と

話していたのは

「楽しもうと思った途端、本当の楽しさは得られないのではないか」

ということだ。

ふっと気づいて

「おーーー。もう夜になってたのか」

が本当の楽しい境地であり、忘我、無我夢中というやつではないかと。

経営理論で人間の感情(たとえばモチベーション)とかプロジェクトを

「マネジメント」するというのは、違うのかもしれない。

そもそも、そんなこと、できっこないし、やっても仕方ないことなの

かもしれない。

そう思いながら北野武『新しい道徳』を読み始めたら、のっけから

こう書いてある。

「道徳がどうのこうのという人間は、信用しちゃいけない」

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