A decision is a judgment. It is a choice between alternatives.

It is rarely a choice between right and wrong.

It is at best a choice between “almost right” and “provably wrong” — but

much more often a choice between two courses of action neither of which is

provably more nearly right than the other.

意思決定は判断である。複数ある選択肢から一つを選び取ることである。

正か悪かの選択であることはめったにない。

せいぜい、「おそらく正しいだろう」と「たぶん間違っているだろう」

の選択になる。いや。それより一番多いのは、他よりおそらく

正しいということさえ言えない二つの行動のうちどちらかを

選択することだろう。

The Effective Executive, p.143  阪本訳


昨日(→クリック!)一昨日(→)と、「事実とは何か」

をテーマにしたのは、意図があります。

いま、ぼくたちがおかれているstatus(状況)は、意思決定と

選択を求められています。

*原発を持ち続けるのか?

*地震と原発に囲まれた日本という国にこのまま住み続けるのか?

など、選択を求められています。

いずれも、YesかNoの答えを選択しなければなりません。

3・11後に行われた統一地方選もまた選択でした。

原発を抱える北海道、福井(最多の15基の原発を抱えている)、

島根、佐賀の4道県の知事選の結果は、「原発の安全性の向上」

を掲げた現職知事たちが圧勝しました。彼らの中に「原発をいったん凍結

しよう」と言った人はいませんでした。

この結果は投票した人たちの選択です。

問題は、有権者たちが、「自分のopinionで意思決定したのか?」

という点です。

ここまで原発の被害にあっていながら、それでもなお、「安全性の向上」

などという、人間のコントロールの支配に置けるという認識をしている

知事を選ぶ、という選択に、疑問を持たざるを得ないからです。

「これではまるで『3・11』の前と後で何も違わない」

と朝日新聞政治グループ有馬央記記者も言っています(2011/4/23朝刊コラム)。

ぼくたちは「真なるものは作られる」報道に囲まれています。

政府が発表する時「ただちに健康に問題はない」というのは、先に「危険だと

国民に思わせない」「安全であると思わせたい」というopinionが政府内に

あるから、factsがそのように作られるのです。

「基準値」つまり、ゴルフでいうところのOBエリアが

opinion次第で広がったり、縮んだりする。

首相が避難所を訪問したことを報じるテレビニュース、

「菅首相の30分間視察に・・・もう帰るのか被災者怒声」

という見出しになっていますが(2011年4月23日TBS系ニュースキャスター

テレビ番組の見出し)、確かに怒声を浴びせた人がいたかもしれない。

一方、同じ被災者でも、首相が訪問してくれて嬉しかった、

と思った人もいたかもしれない。

でも、テレビが「首相が怒声を浴びせられる」ストーリーで報道したい

というopinionを持ったら、そのシナリオにそってfactsが生まれるのです。

北野武氏の文章を、長くなりますが、引用します。

世論調査ならもう少しマシかもしれないが、それにしたって使い方

次第でどうにでもなるはずだ。重要なのは、報道番組が街の声を聞いたり、

世論調査をしたりするのは、別に本当の世論が知りたいからではないということだ。

街の声を聞くのは、あくまでも自分たちが今日流すニュースの論旨を補強する

ためなのだ。嘘だと思うなら、ちょっと考えてみればいい。鶏が先か、卵が先か。

じゃなくて、ニュースが先か、街の声が先か。まさか、報道部のディレクターが

ぶらぶら適当に街を歩いて、いろんな人の話を聞いて、そこからニュースを探す

なんてことをしているはずはない。まずは、たとえば野菜の値段が高騰しているという

ニュースがあるのだ。それで、街のスーパーに庶民の声を聞きに行く。そこで

マイクを向けて、たとえば「ウチは外食ばっかりだから、野菜が高くても別に

困らない」とか「一個300円のキャベツのどこが高いんですか」とかいう答えが

返ってきても、そういうものは放送しないわけだ。

まあ野菜の値段くらいの話なら、それでも別に問題はないのだろうが、

一事が万事だ。政治から経済からあらゆるニュースがそんな感じになっているような

気がして仕方がない。

北野武、超思考、幻冬舎、p.202-203

つまり、ぼくたちは選択しなければならない。意思決定しなければならない。

そのために、自分の頭で考えなければならない。

「無知は罪」の認識のもと、正確な知識を身につけ、判断基準を

涵養しなければならない。

そして、自分のopinionを持たなければならない。

そう言いたいわけです。