「モーツァルトの作品は、そうした種類のものだ。

あの中には、世代から世代へと働きつづけ、早急には衰えたり尽き果てたり

することのない生産力があるのだよ。(中略)ルターは、まことに顕著な

天才だった。彼は、すでに久しいあいだ影響を及ぼしている。これから

何世紀たったら生産的でなくなるものか、見当もつかないくらいだ。

(中略)文学の世界には、その生存中、偉大な天才だと思われて名声を

馳せながら、その影響がその生涯とともに途絶えて、自他ともに考えて

いたほどの者ではなかったことがわかる例があるものだよ」

ゲーテの言葉だ(『ゲーテとの対話』エッカーマン著、山下肇訳、岩波文庫下巻)。

ゲーテが「生産力がある・ない」と言っているのは、ブランド・ウィルスの

感染力がある・ないと言い換えられる。

感染力が永続的 (eternal)にあるのか、それとも

一時的なもの(temporary)なのか。

さらにゲーテは、作品数と生産力とは無関係だと念を押す。

「それから、もう一ついっておかねばならないことは、作品や事業の数が

多いからといって、生産的な人間とはいえないことだよ。文学の世界を

見ると、ぞくぞく詩集を出版したために、とても生産的だと見なされている

詩人がいる。だが私の考えからすると、この連中はまったく非生産的だと

いわないわけにいかないのだ。連中の作品には、生命もなければ永続性も

ないのだからね。それにくらべると、ゴールドスミスは数こそ問題に

ならぬほどほんのわずかな詩しか書かなかったが、それにもかかわらず、

私は、彼をあくまで詩人としてまことに生産的だったと断言せざるをえない

のだよ。しかも、その理由は、彼のそのわずかな作品が、永続しうる生命を

内に蔵しているからなのさ」

ブランド・ウィルスが永続して感染力をもちつづけ、世代を超えて顧客の

愛を受けつづけるようにするにはどうすればいいか。

ゲーテの言葉を借りるなら、「生命」を内に蔵する、ということになる。

では、ブランドが生命を内に蔵するとは、いったいどういうことなんだろう。

それは生命の定義に戻ればいい。

生命と機械の違いは、時間があるかどうか。

生命は、構成分子の動的平衡をもった「ゆらぎ」である。

そして、不可逆に一方向へ流れる時間と共に変化する。

変化、つまり、学びつづける。時代に寄り添い、時代の空気を反映し、

学び、合成、更新、分解をしつづける。

これこそが生命である。

シャッター通り商店街をイメージしてみよう。顧客が行かないのは、そこに

時代の空気がないからである。つまり、時代感、息吹、といった生命を感じられない

からだ。

老舗の優れたホテル、たとえば志摩観光ホテルがいつまでも光り続けているのは、

時代がゴテゴテ飾るのなら、うちは一切飾らない、なにもないことが売り、

という明確な視点を持っていることである。この視点は、時代の空気を

反映していることに違いない。

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