9月7日を、「ジーンの日」と制定いたします。

はい、誠に勝手ながらであります。

なぜなら、一年前のこの日、ブランド・メルマガを書きながら、

「ブランド・ジーン」コンセプトが生まれたからなのであります。

ぼくの頭脳の中から、MacBook Airのキィボードを叩く指先を

通じて、この世に生を受けたからであります。

では、ジーンの日9月7日は何をすればいいかというと、

何もしなくていいのです。

ただ、Yesの日にはしたいなあ。

・すべては与えられ、満ちている

・努力してはいけない。やらねばならぬmustは何一つない

・世界を全部肯定する

という、「全部肯定の日」として、Yesしか、言わない日にしましょう。

そう、ジーンの日は、Yesの日なのです。

記念に、2014年9月7日配信のブランド・メルマガを再掲載しておきますね。

長いけど。

(ここから)

  Welcome

   to

C-R-E-A-T-I-V-E

     B-R-A-N-D

【週刊クリエイティブ・ブランドの授業】

 第61講 ブランド・ジーン

”ブランドの世界観は、

自らの目的を達成するため

にブランドを利用する。

ちょうど卵が、次の新しい卵を生み出すために

めんどりを利用するように。

そして目的が達成されたら、

ブランドは衰退するのだ。”

2014.9.7 9:41am 阪本のTwitterより

[[[[[ 書きながら考えます ]]]]]

ブランドメルマガを創刊して初めて、

書きながら考えます。

というのも、今回のテーマはあまりに壮大で、

事前にジグソーパズルをすべて完成させてから

書き始めることができないので。

[[[[[ テクニウムというコンセプト ]]]]]

自然界には存在せず、人間の手によって生まれた

ものをテクノロジーと呼ぶなら、ブランドも

テクノロジーである。

何も機械やネジがキコキコ動く仕組みだけが

テクノロジーではない。

ケビン・ケリーは、新刊が出れば必ず読む

大好きな著者の一人だ。

簡単に紹介しておくと、1952年生まれ、大学を

中退して、アジアを放浪したりした。

1984年には雑誌『ホールアースカタログ』

にオンラインで雇用された

(本人の言によれば、世界初のオンライン雇用

だったのではないか、とのことだ)。

1992年には雑誌『ワイアード』創刊に

関わった。

『ニューエコノミー勝者の条件』(1998年)

はニューエコノミーの到来とその社会的

インパクトについて論じ、大きな影響を

与えた。ぼくも、衝撃を受けて読んだ一人だ。

ニューエコノミーやデジタル社会に

ついて優れた洞察を述べるにも

かかわらず、彼の自宅にはネットが

つながっていないし、旅に出るとき

ノートパソコンを持って出たりしない。

いわゆる新しいガジェットと呼ばれるものを

手にするのは流行がかなり終わってから

という。

そんな彼が出した

『What Technology Wants』は新刊予約まで

していたのだが、いざ届いたら、

そのまま多忙にまかせて放ってあった。

ぼくが必ず本の奥付に書く

「いつどこの書店で買ったか」メモ

を見ると2011.1.10にアマゾンから

届いているのだが、このあたりは

特に忙しかったのを思い出す。

3月にニューヨーク講演を控え、

その準備をしていたのと、

大きなプロジェクトを二つ

抱えていたため、時間が本当に

なかった。

『共感企業』出版記念

「10万人の共感ツアー」で全国を

回っていた。

このツアーは

ホノルルでスタートし、

東京、名古屋、大阪、

仙台、帯広、旭川、

札幌、福岡、ニューヨークと

「巡業」する計画だった。

そうこうしているうちに例の

311だ。原発問題が発生し、

このときこそ、テクノロジーに

ついて考える最適な時期だった

のだが、忘れていた。

『What Technology Wants』

で、ケビンは、「テクニウム」という

コンセプトを鍵に論を展開する。

簡単に言うと、こうだ。

テクニウムとはテクノロジーを

生み出す巨大なシステム。

互いにつながりあい、人間を

取り囲む環境になっている。

自己生成の力が内蔵されていて、

複雑なウェブを形成している。

ちょうどワールド・ワイド・ウェブ(WWW)

のようなものだ。

タペストリーと呼んでもいい。

人間の力で動くのではなく、

自身がまるで生き物のように

「生きている」。

宇宙の誕生や成長、

生物(動物、植物)の

誕生や成長と同じく、

人為的な何らかの働きかけ

がなくても、テクノロジーは

自らを生み出し、

成長していく。

この論でいくと、

人類の発明発見は

人類が主語となって

やったのではなく、

テクノロジーが

主語となって

人類を利用した

とも言える。

エジソンは努力の末に

電球を発明したと

本人もぼくたちも

思っているが、実は

背景に

テクニウムの意志が

働いていた。

スティーブ・ジョブズが

MacBookやiPod、

iPhone、iPadを

発明したのではなく、

テクニウムが

やりたいことがあって

ジョブズを利用した

だけなのだ。

こう考えると、

ハプシコードが発明されるより

1000年も前にバッハが生まれたり、

ピアノと交響楽の生まれる前に

モーツァルトが生まれたり、

安価な油絵の具が発明される

5000年も前にゴッホが生まれた

りしたらぼくたち人類は

いかに貧しい文化になっていた

だろう・・・というのは杞憂に

過ぎない話になる。

つまり、テクニウムは

自身の価値を最大に

発揮できる機会を自ら

創りだすのだから、

放っておいても

バッハやモーツァルト、

ゴッホが傑作を生み出せる

ように、最適なタイミングに

最適な方法で、

「彼らを利用する」。

ジョンとポールが出会ったとき、

エレキギターが発明されていなかった

ら? ビートルズはアンプラグドバンド

として、あるいはフォークソング

グループとして成功していたのだろうか?

この疑問も、テクニウム論で考えれば

氷解する。

つまり、エレキギターのテクノロジーは

自分の可能性と美を人類に知らしめる

ためにも、ビートルズを誕生させ、

彼らの楽曲を地球規模でヒットさせ、

人類共通の歌として記憶に残る

ように「した」のである。

ビートルズが生まれ、

ヒットし、

歴史に名前を残したのも

テクニウムのしわざなのだ。

(このあたり、『What Technology Wants』

最終章14 Playing the Infinite Game 終わりなきゲームを楽しむ

p.349-350を主に参考にしています。)

この、ある種のオプティミズム、

どこかで読んだと思ったら、

自分が翻訳したポール・ホーケン

の文章だった。

ちなみにホーケン、

ケビンのこの本に推薦文を

寄せている。

「この本を読んで、驚き、

アタマを揺さぶられ、

地面がひっくり返る体験を

してください」(阪本による大意翻訳)

[[[[[ オプティミズム ]]]]]

では、ポール・ホーケン

『祝福を受けた不安』(阪本訳)

から引用します。

(引用開始)

有名な生物学上の命題がある。

「めんどりは卵にとって、次の

新しい卵を作るための手段なのでは

ないか」

 同様に、人類は植物を農業の

ために育て品種改良したりしてきたが、

実のところ、植物は自分の

進化のために農業を利用している

のではないだろうか。

共進化的観点から言うならば、

両命題とも真である。

リスが森のあちこちにどんぐりを

埋めて隠すのと、人間が

ポテトを地表のあちこちに

植えるのといかなる違いが

あるというのか。

いずれが主で、

いずれが従か。

どんぐりやポテトの滋養が主か、

それともそれらを植える生物が主か。

進化はデザインや意志の問題

ではない。

生物が生き延び、より良く

成長するために絶え間なく

努力する営みの結果が進化だ。

結果はさまざま。

うっとりするほど美しかったり、

かと思えば風変わりな疫病だったり、

はたまた超のつく素晴らしさだったり・・・。

何にせよ、そこには「コントロール」は

ない。

生物の意志による制御、支配、管理など

できないのである。

そして、進化は常に底辺から起こる。

希望もまた。

火が森を焼き尽くし、

そこに棲む動物や植物が失われた

としても、時が経てば再生する。

種が数十年もの間土中に眠って

いたとしても、ある時、熱が集中的に

種の中に宿る生命へと点火したなら、

たちまちのうちに群葉をもたらし、

春には花が咲く。

地中深く根をおろしていたがゆえに、

ミネラルをたっぷり吸い上げている。

広がった葉は表土を直射日光や雨

から守る日よけのはたらきをする。

年齢(とし)を重ねた森林ほど

再生・回復力を備えている。

人類は太古の森林よりも年齢が

上だ。

即ち、人類の受容力、

回復力は過小評価されすぎている

のである。

進化は動くオプティミズム(楽観主義)

なのだ。

(引用ここまで)

*『祝福を受けた不安』ポール・ホーケン、阪本訳、

バジリコ刊、2009年、p.51-52から引用

[[[[[ 穀物の陰謀 ]]]]]

クライアントの役員は

三人とも「米原理主義者」

である。「米」は「アメリカ」

ではなく、「こめ」だ。

要するに、めっちゃめしを食う。

合宿しても、役員三人+阪本

のテーブルの上のめし釜がすぐに

なくなってしまい、お代わりを

繰り返したため、厨房で夕食用

に用意しておいたごはんが

なくなり、若手にとばっちり

がいったこともある。

この会社では真面目に、

報酬を米俵にしようかと

いう会話がなされるほどで

ある。

江戸時代か。

「とーちゃん、ようやく5万石

になった! どや!」

「やったー! おとう、

出世したね。これで腹いっぱい

めし食えるね!」

体育会系の組織で、

とにかく全員元気がいい。

新人女性は、

「おんな扱いされ

なかったことがわたしが

今日まで辞めずに

もっている理由かもしれません」

と言っている。

そんな役員たちとよく話すのは、

穀物はうまい。

うまくて仕方ない。

だからいっぱい食べる。

これはもしや穀物の陰謀ではないのか。

つまり、穀物が自分たちを

繁栄させ、進化させるために

人類を利用しているのだ。

[[[[[ ブランドもテクノロジー ]]]]]

もう一度繰り返すね。

自然界には存在せず、人間の手によって生まれた

ものをテクノロジーと呼ぶなら、ブランドも

テクノロジーである。

だとすると、ブランドもテクニウムの

支配下にあるのだろうか。

ブランドの世界観について考えてみよう。

ブランドの世界観とは何か。

ブランドを通じて世界にいかなる

インパクトを与えたいのか。

変化をもたらしたいのか。

これがブランドの世界観だ。

これはあたかもブランドを創った

ぼくたち人類が考えだした

ものだと今日まで考えていたが、

実のところ、違うのではないか。

まず、世界観が先にある。

それは人間の頭脳の中に

はなくて、でも、どこか

にあって。

その世界観がブランドを

利用して、具現化しようと

しているのではないのか。

「夢と魔法の国」が、

概念だけではなく、

色や形、物理的実体を

手に入れようとして

ウォルト・ディズニーを

利用し、

さらにはディズニー・カンパニー

を利用して、のちにピクサー

までものみこんで、

具現化しているのだ。

認知科学者D・A・ノーマン

は『誰のためのデザイン?』などで

有名だが、彼が1998年に出版した

『The Invisible Computer』

(邦訳『パソコンを隠せ、

アナログ発想でいこう』)

で提唱した世界は16年経った

2014年現在、実現している。

つまり、こうだ。

「使うのに面倒くさい

パソコン(1998年当時)は

退場し、情報アプライアンスと

彼が呼ぶ、使い勝手のよい機器や

ソフトウェア、アプリが道案内や

買い物リスト管理をやってくれる。

そしてコンピューターなんていう

やっかいな代物は服や体に身に付け

られる(ウェアラブル)ような

何かにとって代わられる」

ノーマンが描いた1998年のビジョンが

スマートフォンと無数のアプリを「利用」

して、具現化しているのである。

[[[[[ ブランド・ジーン ]]]]]

こう考えてみて、背中を冷たいものが

走った。

衰退するブランドは、

役目を終えたのであり、

延命策を人間がいくら

やってもムダなのだ。

つまり、ブランド・エッセンス、

製品・サービスで定義するのではなく、

顧客が受け取る価値で定義、

または再定義する

「エッセンスの蒸留作業」の意義は、

テクニウムさまの目的を時代の流れと

共にぼくたち人間が確認「させていただく」

ことにある。

長寿なブランドは、おそらく、テクニウムが

意図する「具現化したい価値の根っこ」

みたいなものをしっかり持っていて、

それを実現するのに人間にとっては

長いだけ。

ブランドにとって時間は必要条件で、

それが人間にとって「長く感じるか

短く感じるか」は知ったこっちゃない

のである。

ブランドの寿命と人間の生物的時間は無関係。

テクノロジーとしてのブランドが内包する

テクニウムを、他と区別するため、

ブランド・ジーンと呼ぶことにしよう。

つまり、ブランドを利用して具現化したい

価値の根源である。

すると、ブランドが繁盛したり

長命か短命かという人間にとって

最も気になることを決定づけるのは

ブランド・ジーン次第なのだと

いうことになる。

[[[[[ パナソニックの根源さん ]]]]]

ここで思い出したというか、

「根源」という言葉で連想

したのが松下幸之助の

「根源さん」の話だ。

松下幸之助は、京都に

松下美術庵・真々庵を造った。

真々庵には「根源さん」と呼ばれる

小さな社(やしろ)がある。

松下さんの言葉

「一応はお伊勢さんの内宮の形をしておる

けどな、あれはわしが勝手につくった。

ハハハ。あのなかにはなんも入っていない。

わしの考えが入っておるだけや。

根源という考えが入っておると」

通常、神社にはご神体がある。

神体に神様が宿っておられる

と考えられているからだ。

しかし、「根源さん」にはなにも

入っていない。

日本の神社では、山をご神体に

したりすることがある。

沖縄のスピリチュアル

な場所「御嶽(うたき)」には何

もない。

岡本太郎は、こう書いている。

(引用開始)

 私を最も感動させたものは、

意外にも、まったく何の実体も

持ってない ——— といって

差支えない。御嶽だった。

御嶽 —- つまり神の降る聖所である。

この神聖な地域は、礼拝所も建って

いなければ、神体も偶像も何もない。

森の中のちょっとした、何でも

ない空地。そこに、うっかりすると

見過ごしてしまう粗末な小さい

四角の切石が置いてあるだけ。

その何もないということの

素晴らしさに私は驚嘆した。

これは私にとって大きな

発見であり、問題であった。

(引用終了)

*『沖縄文化論』、岡本太郎、初版1972年刊行、

 引用は2006年刊行の中公文庫版、p.40-41

 

松下幸之助の話に戻そう。

根源さんという考えとはどういう

ものかについて、伊与田覚先生が

最新刊『人はいかにして大成するか』

(致知出版、2014年)

で松下さんの言葉を引用されている。

(引用開始)

「どうして根源という考えを

わしが持ったかと。わしの

ような、一般的には、なにも

恵まれておらなかった者が、

一応の成果をあげ得たということ。

実力のない自分が実に不思議ななあ

とわしは思ったんや。そやろ。

 正直言うと、なぜこうなったのか、

ほんとうのところの理由はわしにも、

ようわからんのや。しかし、こうなったと。

わしの実力があったからではないと。

運というか、たまたまこういうふうに

なったのやないかと。ありがたいと。

そう思うんや。

 それであるとき考えた。これは

自分をこういうふうに存在させて

くれたものに感謝せんといかんと。

誰がわしを存在させたんか。

考えたら、それは両親やと。

これはわしの両親に感謝せんと

いかんとそう思った。

しかし、それではわしの両親は

どうして存在したのやろうか、

とすぐ思った。それはそのまた

両親からやと。(中略)

それではその両親は、ということで、

どんどん考えていったら、ついには

人間の、始祖になった。(中略)

とすると、今日わしがこうして存在

しておることに対しては、両親や

そのまた両親に感謝せんといかん

ということはもちろんのことや

けど、はじめての人間、始祖や

な、始祖に感謝せんといかんと、

そう思ったんや。

 ところがふと、それでははじめての

人間はどこから生まれてきたのか、

と思ったんや。いろいろ考えた

けど、今度はそう簡単に答えは

出てこん。ずいぶんとあれや

これやと思い巡らした結果、

人間は宇宙の根源から、

その根源のもつ力によって

生み出されたんやと、うん、

突然ひらめいた」

「それは人間だけではない、

宇宙万物いっさいがこの根源

から、その力によって生み出されて

きたんやと考えた。実際にそうか

どうかは、わしはそのころ生きて

おったわけやないから、分からん

けど、そう考えるほうが

便利がいい。

その根源の力にひとつの決まりがある。

それが自然の理法というもんやな。

そしてその力には宇宙万物すべてを

生成発展せしめる力があると。

そう考えてくると、今日わしが

ここに存在しており、その根源を

たどれば、はじめての人間を

通り越して、宇宙の根源にまで

いたるわけやな。そうすると、

ここに存在している、存在できている

ことへの感謝の思いは、実に

この宇宙の根源に対してで

なければならんということ

になったんや。それでわしは、

あのお社をつくった」

(引用終了)

*『人はいかにして大成するか』

(伊与田覚、致知出版、2014年、p.126-130部分引用)

[[[[[ 大いなる力がブランド・ジーンになる ]]]]]

矢沢永吉は、「夢をもって突き進む力」

というブランド・ジーンがエーちゃんの

肉体とファンを利用して

具現化したブランドと解釈できる。

「夢をもって突き進む力」は

松下さんいうところの「根源さん」、

何か大いなる力の意志だ。

ここで古典『中庸』を思い出した。

『中庸』は「天」がテーマだ。

「天」とは何か。

一般的には人が「神」と呼んでいるものではないかと

ぼくは理解している。

『中庸』のラストは、こうだ。

「上天のことは声も無く

においも無し。

至れり。」

つまり、「何か大いなるもの」

が確実に存在し、我々人間を

動かしているが、

それは声として聞こえるわけでも、

何か気配を教えてくれるようなにおいが

するわけではない。

つまり物理的実体などない。

にもかかわらず、それは確実に

存在している。

我々人間の「生きる」営みは

天の命ずる性、性にしたがう道を歩む

ことに他ならない。

道は離れてはならない。

つまり、ブランド・ジーンは

物理的に存在を知ることはできないが、

ブランド、ひいてはブランドに携わる

ぼくたち人間に命じているし、道を

教えてくれている。

その道を知り、道を離れることなく

歩むこと。

これこそが、ブランド

の営みなのだ。

「ちょっと待ってよ。

するとぼくたち人間が

アタマを使って考えたり

することって、ムダなの?」

という人がいるかもしれない。

ある種「運命論」的で

つまらない、という人

もいるかもしれない。

もちろん、そんなことは

ない。

これまでと同じ。

ぼくたちは

ブランドが提供する価値、

ブランド・エッセンスについて

考え、

感じ、

行動し、

議論して、

試して、

お客さんを観察する、

お客さんと話す。

人間にしかできないこと、

人間だからこそできること。

それを懸命に行う。

これこそが、生き甲斐だし、

ブランドが望んでいることだ

と思う。

ちょっと昔のドラマ

『恋ノチカラ』(2002年、フジ系)

http://www.fujitv.co.jp/b_hp/power/

最終回。

乾坤一擲の新商品「えんぴつねずみ」

が全く売れず、広告代理店Nukui企画

は会社解散が決まった。

クライアント文具メーカー

も倒産を覚悟した。

ところがラスト、「なぜか」えんぴつねずみ

の人気に火がついて、爆発的大ヒットになる。

おかげでNukui企画も、文具メーカーも

息を吹き返す。

奇跡が起こったのだ。

では、「なぜ」起こったのだろう?

人間は因果関係を探るのが好きだ。

しかし、ドラマでは、一切、因果関係、

つまり、

「**したから大ヒットにつながった」

という説明がない。

大ヒットしたのだ。

以上。

では、偶然の女神が微笑むのを待つしかないのか?

違う。

Nukui企画メンバー、文具メーカー、

みんな、やりきっていた。

アタマで考えて、これをやるべきだと

思うことはすべてすべてすべてやりきっていた。

「やりきる」こと。

「人事を尽くして天命をまつ」

まさにこのことを言うのだと思う。

ブランド・ジーンが、ブランドの

遺伝子が、後世に残りたい、と

思うなら、そうなるようにできている

のである(笑)。

逆に言うと、期待したにもかかわらず

残念な結果になったブランドは、

「それでいい」のだ。

やりきっていさえすれば。

あとは、ブランド・ジーンの

仕事なのである。

<やってみよう>

人間にしかできないこと、

人間だからこそできること。

それを懸命にやってみよう。

やりきろう。

 Thank you for your reading.

Have a JOY+WOW+LOVE and FUN!

Copyright (c)2014-2015  Keiichi Sakamoto /  All Rights Reserved

(ここまで)

すべてにYesと言おう!

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